多角的に見る力は、伝え方まで含めて設計力になる
会議で、つい口を出してしまう
打ち合わせで、自分だけが気づいてしまうことは、ないでしょうか。
ある課題——仮にAとします——への対策を、みんなで話している。案が出る。悪くない。でも、自分には見えてしまう。その案だと、今は話題になっていないBやCが、あとで引っかかる。前に進まなくなる。
見えてしまうと、気になります。特に、明らかにうまくいかない案が出ると、薄く感じて、「なぜそれを?」とすら思ってしまう。そして、つい口を出す。「それだと、Bが引っかかりませんか」。
正しい指摘のつもりです。でも、その瞬間、場が凍ります。みんなが少し委縮して、次の発言が続かなくなる。自分と、周りの距離が、少しずつ遠くなっていく。
私は、この口を挟む側で、長くやってきました。そして、見えるというのは、しばしば厄介さとセットなのだと、知っています。
この「余計なものまで見えてしまう力」『多角的に見る力』は、設計者にとって一番の武器です。ただし、扱いを間違えると、自分の足を刺します。この記事は、その扱い方『見えたものをどう届けるか』の話です。
多角的に見る力とは何か
「BやCが引っかかる」が見える、とは、頭の中で何をしているのか。分解整理します。
一つの設計を前にすると、見るべき面はいくつもあります。機能は満たすか。壊れないか。安く作れるか。工場で作りやすいか。部品は調達できるか。これらは、別々に見て後で足せばいい、というものではありません。互いに絡み合っているからです。
強度を上げようと肉厚を増やせば、重くなり、材料費が上がり、作りにくくなる。一つ動かすと、他が全部動く。だから、バラバラにではなく、同時に見て、動きを追いながら、落としどころを探すしかない。
これが、多角的に見る力の中身です。複数の面を、頭の中で同時に回し続ける。さっきのAへの対策が、BやCに跳ね返って見えたのも、これです。一つの案を、いくつもの面で同時に確かめているから、引っかかりが先に見える。

なぜ、それが普遍的な力なのか
この見方は、設計の外でも同じように働きます。
私は設計以外の仕事もするようになって気づきました。何かを判断するとき、頭が勝手に、いくつもの面を同時に開く。お金の面、人の面、時間の面、その先の面。設計でやっていたことと、同じ動きです。
つまり、多角的に見る力は、特定分野の知識ではありません。対象が変わっても応用できる、ものの見方そのものです。だから、業務が変わっても消えない。——ただし、良い面ばかりではありません。大事なのは使い方です。特に相手がいる場面では、伝え方に気を付けないと、この力は届かないだけでなく、悪影響を与えることすらあります。
正しさは、伝わりやすさではない
なぜ、正しい指摘が、場を凍らせるのか。
指摘は、正しいのです。BもCも、本当に引っかかる。放っておけば、あとで困る。でも、正しさと、伝わりやすさは、別のものです。
「それはダメだ」「Bが引っかかる」と正面から出すと、相手は、自分の案を否定されたと受け取ります。人は、否定されると、身を引く。反論するか、黙るか。どちらにしても、そこで思考が止まる。指摘が鋭いほど、この反応は強くなります。
多角的に見える人が、会議で浮いていくのは、能力が足りないからではありません。むしろ逆で、見えすぎるのに、見えたものをそのまま出してしまうせいです。中身は正しい。でも、届け方で、損をしている。
見つけたものを、問いに変える
では、どうするか。私がたどり着いたやり方があります。
まず、無理にポジティブにはしません。でも、その場で感じた違和感は隠さない。おかしいと思ったものは、おかしいものとして扱う。自分に嘘をつくと、続かないからです。
そのうえで、一つだけ変えました。否定の形でなく、問いの形で出す。
たとえば、Aへの対策が出て、でもBとCが引っかかると見えたとき。「それはダメだ」ではなく、こう言います。
「Aですね、うんうん、なるほどです。……で、そうするとBがなんか起きそうな気がするんですけど、そこはどうしますかね?」
あるいは、相手が、Aにちゃんと効く対策を出せていないと感じたとき。
「すみません、ちょっとですね、僕が勉強不足なせいもあって、Aがなんで起こるかってちょっと分かってないんですよ。なんでその対策ももうちょっと頭に入ってなくて、なのでちょっとすいませんけれども、Aがなんで起こるかっていうところを説明してもらってもいいですか。」
やっていることは、否定です。中身は「その案では足りない」。でも、形が問いになっている。すると、何が起きるか。
相手が返すのは、相手自身が考えた答えになります。 こちらが「ダメだ」と結論を渡すのではなく、相手が、自分で「あ、Bが引っかかるな」とたどり着く。自分で否定せざるを得ないところに、そっと持っていく。答えを渡さず、考える場所を渡すのです。
守るべきポイントは、一つだけです。相手を攻撃しないこと。周りを委縮させないこと。問いの形をとっていても、詰問になれば、正面から否定するのと変わりません。あくまで、「教えてほしい」の姿勢です。
以前、技能を「渡す」ことについて書いたとき、答えを教えるのでなく、問いを投げるのがいい、と書きました。会議でのこの言い換えも、同じことをしているのだと思います。見つける鋭さは、そのまま。届けるときだけ、問いに変える。

なぜ、こんなに回りくどく詫びるのか
読み直すと、さっきの二つのセリフ、遠回りに感じたかもしれません。
一つ目は、本題に入る前に「Aですね、うんうん、なるほどです」と相槌を挟み、間を置いてから、BとCの話に移る。二つ目は、もっと極端です。「ちょっとですね」「勉強不足なせいもあって」「頭に入ってなくて」「なのでちょっとすいませんけれども」——自分の理解不足を何重にも詫びてから、ようやく質問にたどり着きます。
なぜ、こんなに回りくどいのか。半分は、わざとです。もう半分は、自然とそうなっています。
わざとの部分は、日本語の性質から来ています。英語では、「これをこうしてほしい」と用件を先に出す言い方が基本です。ストレートに出さないと、話が伝わらない。日本語は違います。まず相手を受け止めるところから、会話が始まります。用件から入ると、それだけで冷たく響いてしまう。
まして、こちらが出そうとしているのは、相手の案への引っかかりです。中身は、否定に近い。否定の言葉は、そのままの温度で出すと、それだけで攻撃になります。相手は仕事を続ける気を失い、次の一言も出てこなくなる。だから、相槌でまず受け止め、へりくだって自分を一段下げてから、そっと本題を置く。あの回りくどさは、相手が気持ちよく仕事を続けられるように、意図的に厚く積んだクッションです。
自然の部分は、これを長年やってきた癖です。相手を委縮させたくないという気持ちが染み込むと、意識しなくても、口が先に詫び始めます。
ただ、一つ、注意点があります。この話し方がちょうどよいか、やりすぎか、どう受け取られるかは相手次第ということ。人によっては冗長に感じられている可能性もあります。そこは正直、相手次第です。
そもそも、相手の立場や場面に応じて話し方を切り替える必要は、当然あります。その使い分けは別の記事で書きます。ここでは、”届けたいのに届かなくなる”場面に絞って続けます。
それでも、私は、クッションは厚めに置くようにしています。冗長に感じられるリスクよりも、相手を委縮させて、その先の対話を止めてしまうリスクの方が、設計の現場では重いと感じるからです。対話が止まれば、多角的に見た結果も、相手には届きません。
問いは、即答できない自分も救う
この「問いに変える」やり方には、もう一つ、効き目があります。
多角的に見ると、どうしても脳のリソースを多く使うため、その場でテンポよく指摘をすることが難しくなります。また、前提に矛盾があると、そこで引っかかって止まってしまう。私は、この様なひっかかり「会話の途中で止まってしまう」に、長く引け目を感じていました。
でも、問いに変えると、これが弱みでなくなります。
「わからない」を、隠さなくていいからです。むしろ、そのまま問いにできる。「すみません、ここが分からないので、教えてください」。止まってしまった自分を、無理に動かして、気の利いた返しをひねり出さなくていい。止まった、その場所を、そのまま問いとして差し出せばいい。
わからない、は、弱さではありません。多くを同時に見ているから、簡単には呑み込めない。その正直な「わからない」が、いい問いになります。
一つだけ、付け加えます。問いが効くのは、考えようとする相手です。考えること自体を面倒がる相手には、問いを向けても、返ってきません。その見極めは、また別の話です。でも、大半の人は、問いを向けられれば、ちゃんと考えます。
まとめ 見えたものを、問いに変えて
- 多角的に見る力とは、絡み合った複数の面を、頭の中で同時に回す力
- それは設計の知識ではなく、対象が変わっても持ち運べる、ものの見方
- ただし、有用なだけでは届かない。見えたものをそのまま出すと、場は凍る
- 正しさと、伝わりやすさは別のもの。鋭い指摘ほど、人は身を引く
- だから、見つけたものを、否定でなく、問いの形に変えて届ける
- 問いにすると、相手が自分で答えにたどり着く。攻撃せず、委縮させないことだけ守る
- 「わからない」も、そのまま問いにできる。即答できない自分の、逃げ道になる
見えることは、財産です。でも、見えるだけでは、半分です。私は見えたものをそのまま出して場を凍らせ、距離を作ったことが何度もあります。
残りの半分は、届け方です。見つけた鋭さを、問いに変えて、相手の前にそっと置く。否定を、問いに変える。それだけで、同じ指摘が、対立ではなく、相手の思考になります。
見える人ほど、この一手で、力が通じ始めます。

